02 feature 香りは刷れるのか?
バニラからはじまる
「見えないインク」の実験

  • 織田 浩彰

    阪口 恵 版画家 / デザイナー

  • 光川 貴浩

    vanilab運営 光川 貴浩 編集者 / 路地活動家

平安時代、人々は和歌をしたためた紙に香りを移し、言葉だけでなく“香り”でも想いを届けていました。

その人らしさ”を伝える伝達手段に「香り」があったことは、スマートフォンでの動画やSNS体験がコミュニケーションの中心となった現在から振り返ると、少しうらやましくも感じられます。

本プロジェクトは、日本の伝統的な嗅覚メディアである「文香」を、芳醇なバニラの香りと組み合わせることで“令和の文香”として再解釈しプロトタイプを制作する試みです。そして、この香りを用いた印刷技法は、福祉領域における新しい情報体験へと接続できるのか。

そんな問いから、「Invisible Ink(見えないインク)」プロジェクトは始まりました。

京都に拠点をおく「B.B.BHOUSE」のバニラボ(Vanilab)は、さまざまなクリエイターとともに、バニラという植物から「福祉の新しい可能性」を探る実験場です。プロジェクトを支えてくれたのは、若手版画家の阪口恵さん。点字ブロックなど都市の表面をモチーフに、水性木版画で実寸大に再現する作品を制作しています。

クリエイタープロフィール

阪口 恵 版画家 / デザイナー
阪口 恵 版画家 / デザイナー
Googleマップで見つけた場所を訪れて、実在するアスファルトのひび割れや汚れ、ブロック塀など身近な質感を水性木版画で紙へ置き換える作品を制作する。重く硬い構造物を軽く柔らかな紙に摺ることで視覚と触覚のずれを生み、場所に固有の風景を反復可能な存在へと変換する。2024年全国大学版画展優秀賞、2025年同展町田市立国際版画美術館賞受賞。
光川 貴浩 編集者/路地活動家
光川 貴浩 編集者/路地活動家
2012年、バンクトゥを設立し、編集を軸に多様なメディアの企画・制作を担う。2008年頃から京都の路地に魅せられ、街を歩き続けるなかで、本人いわく「Googleストリートビューより詳しくなった」と語るほどの路地ツウに。本業のほか、京都精華大学・京都芸術大学の非常勤講師や、まいまい京都で路地んの街歩きツアーガイドも務めている。
https://bankto.co.jp/

記憶に直接届く、
香りメディアの可能性

突然ですが、香りをかいで、突然思い出や記憶がよみがえった経験はありませんか。

雨上がりのアスファルトの匂いで夕暮れの帰り道を思い出したり、すれ違った人の香水でもう連絡を取らないと決めた人の名前までよみがえったり。こうした体験は、偶然ではありません。

実は、嗅覚は五感の中でも特異な神経経路をもつ感覚です。視覚や聴覚などの感覚は、一度大脳新皮質を通って処理されるのに対して、嗅覚だけは記憶をつかさどる海馬や感情に関わる大脳辺縁系へと直接伝達されます。

この神経構造により、匂いは理性的な判断を経る前に記憶や感情と強く結びつきます。いわゆる「プルースト効果」と呼ばれる現象(匂いをきっかけに過去の情景や感情が鮮明に想起されること)が起こるのも、このためだといわれています。

「文香」は、その嗅覚の特性を巧みに活かした日本の伝統的なメディアであるといえます。平安時代、貴族たちは香木や線香などの香料を和紙に移し、封筒や便せんに忍ばせました。文字とともにふわりと立ち上がる香りは単なる装飾ではなく、送り手の感受性や気配を受け取る装置として機能していたと考えられています。

現代では封書に添えるだけでなく、名刺入れやしおり、財布の中に、香木を包んだ折り紙や匂い袋を忍ばせるなど、日常のさりげない香り体験として楽しまれています。

一方で、現代のコミュニケーション環境はどうでしょうか。SNSやAIは、フォントや画像サイズ、表示形式などを規定し、視覚や聴覚の情報を中心に最適化することで、表現を一定の型へと整えながら情報を効率的に届けています。

しかし本来、人の表現には、その人ならではの声色や間合い、ボディランゲージのような振る舞い、そして“匂い”のような情報によって「その人らしさ」があるはずです。

視覚・聴覚優位の現代のメディア環境に、嗅覚というレイヤーを重ねることは可能なのか。記憶や感情を直接呼び起こす力がある「香り」のデザインを広げることで、複層的な情報体験やアクセシビリティを設計できるのではないか。こうした問いを手がかりに、プロジェクトの実験が始まりました。

バニラ顔料(インク)の実験

文香は、和紙そのものに香りを移す方法がとられてきました。現代では、香木を包んだ折り紙や匂い袋のようなプロダクトに加え、香料やアロマスプレーを吹きかけて香りをつける手法も一般的です。

本プロジェクトでも、まずはその伝統的な方法を試しました。バニラを熟成させる木箱の中に和紙やムエット(試香紙)を入れ、移り香によって香りづけのテストを行いました。

1週間もすれば紙にはほのかにバニラの香りが残りました。しかし、その立ち上がりは穏やかで、時間とともに減衰しやすく、香りの強度や持続性にもばらつきが見られました。移り香は繊細ですが、制御の難しい方法でもあると感じました。

そこで発想を転換し、紙に香りを移すのではなく、顔料(インク)そのものに直接香りを混ぜ込むことを検討しました。そうすることで、バニラに限らず図像に合わせて香りを選択でき、かつダイレクトに香りを定着させることができます。図像と香りを一体化した印刷表現が可能になるのではないかと考えました。

実験は、水性木版画の基本工程に基づいて行いました。顔料・膠(にかわ)液・水を混合し、さらにデザインに合わせた水性のカラーインクを調合します。そこにバニラエッセンスを加え、香りを含む顔料(インク)として再設計しました。

結果は明確でした。紙に移した移り香よりも、顔料に直接混ぜ込んだほうが、はるかにダイレクトにバニラの香りが立ち上がりました。

今回の実験では8本のバニラビーンズ(さや)を実験に用いた。対象となる植物を蒸すことで香りの成分を含んだ水蒸気を発生させ、その気体を氷で冷却することで、一滴ずつ、エッセンスを抽出する。

複数回の実験を経て、バニラの場合は顔料の元剤50mlに対してバニラエッセンス450滴という配合が、香りの強さと刷りの安定性を両立する最適点であることを確認しました。

重要なのは、香りを「偶然に移るもの」ではなく、「設計可能な変数」として扱えた点です。今回試した紙への移り香は環境や時間に依存しますが、顔料への混合は再現性を持たせることができます。香りを印刷工程の内部に組み込み、配合比によって強度や持続時間を調整できることを確認しました。

世の中には、香料を封入したスクラッチ印刷やマイクロカプセル技術を用いた印刷技法も存在します。しかし、本プロジェクトのアプローチはやや異なります。水性木版画という手仕事の工程のなかで、顔料そのものに香りを混ぜ込むことで、より香りの選択肢を広げ、小ロットに、かつ手触りの豊かさをもつ香り印刷技法を見据えています。

木版印刷特有の滲みやかすれなどの風合いとともに、香りもまた印刷物の質感の一部として存在する。均質に量産されるものとは異なり、一枚ごとにわずかな“ゆらぎ”をもつ印刷物として成立することを目指しました。

—— 織田さんのノンアルコールカクテルは、ノンアルコールとは思えない満足感や高揚感があります。今回、バニラの蒸留水をつくれないかという相談なのですが、植物の傾向などはあるのでしょうか?

織田:
経験上、油馴染みの良さそうな植物は、結構ダメなことが多いですね。乳製品や油分によって香りを抽出するものは、水を足しても弾いてしまって、香りを引っ張ってくることができないです。今回のバニラも、バニラエッセンスやバニラオイルなど製菓でよく使われているように、バニラの芳香成分はおそらく水とは親和性のないタイプだと思います。

プロトタイプしたポストカード。バニラビーンズ、バニラの花、バニラを象徴するアイスクリームの3種の図柄から、バニラの甘く濃厚な香りがする。

嗅覚からひらく、
福祉への応用可能性

今回の実験によって、図像とともに香りを紙に定着させられる可能性が見えてきました。一方で、この技法を広げていくためには、いくつかの課題もあります。

まずひとつはコストの問題です。天然のバニラは世界でもっとも高価な香料のひとつです。限られた素材をいかに効率よく顔料に閉じ込め香りを持続させるか。より少ない量でも効果的に香りを発現させるための配合や定着方法、あるいはバニラ以外の植物と顔料の検証を進めていく必要性を感じました。

もうひとつは、実用化の問題です。香りを含む印刷物は、単なる視覚的なグラフィックではなく、嗅覚や触覚を含む複層的情報をもつプロダクトとなります。その特性を活かしながら、どのような形でプロダクトとしての価値を見出すことができるのか。プロジェクトチームでは、福祉領域への応用可能性を検討してみました。

① 視覚障がい領域への応用
まず考えたのは、視覚障がい領域におけるメディア機能の拡張です。たとえば、印刷物に用いられる「点字」に香りの版を重ねることで、単なる情報伝達を超えた、情景の想起を伴う体験設計が可能になるかもしれません。
② 児童・高齢福祉領域への応用
次に、児童や高齢者福祉の領域です。嗅覚が記憶と強く結びつき、特定の香りが安心感や過去の体験を呼び起こすことは広く知られています。香りを含んだ印刷物は、子どもにとっては想像力をひらく遊びのメディアとなり、高齢者にとっては記憶を呼び起こすきっかけとして機能するかもしれません。
③ 精神障がい福祉領域への応用
さらに、精神障がい福祉領域との接続も検討してみました。言語による説明や読解が難しい状況においても、香りは直接的に感情へ働きかけます。意味に閉じた情報伝達ではなく、感覚でつながりあえる新たな表現領域がひらけるかもしれません。

重要なのは、これらを「補助的機能」として扱わないことだと考えています。嗅覚は、視覚や聴覚の代替ではありません。まだ十分に設計されてこなかった感覚のレイヤーです。

現代の情報環境は、視覚と聴覚を中心に発展の偏りがある状態なのかもしれません。平安時代から親しまれてきた「文香」の文化を振り返ると、むしろ昔の人々のほうが、香りを含むさまざまな感覚を使いながら、より豊かなコミュニケーションを行っていたのではないかとも感じられます。

「Invisible Ink(見えないインク)」プロジェクトは、人間らしい感覚の価値そのものを問い直す試みとして、引き続き実験を行っていきます。


バニラ顔料(インク)の実験

「Invisible Ink(見えないインク)」プロジェクトは、現在も実験段階にあります。香りを含む印刷技法の精度向上や応用展開に向けて、技術支援・研究協力・資金支援などの形で伴走してくださるパートナーを募集しています。

福祉、印刷、素材開発、香料、教育分野など、領域横断的な連携を歓迎します。
ご関心のある方は、ぜひお問い合わせください。

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